ふるさと歴史の散歩/逍遙・和木村誌稿・和木町史(末岡美胤 著和木町)によると和木はもともと大滝村といわれ、古言に厳谷の水が小瀬村で深瀬となり乙瀬となり小瀬となりその下が大滝となったと云う。厳国沿革志の中に小瀬川の川筋が現在の大竹の北山麓に沿って流れ、大竹と和木が一続き(大竹・和木・装束)の時代があったことが記されている。この地続き一帯の地を大滝村と称した。その後洪水によって川筋が中央に移動し大滝村を二分したと考えられる。二つに分離独立したのは、1600年のことである。
伝説によると六百年前入村した和銅斉(医者)と黙安禅師との頭文字(黙は難しいので木とした)をとり和木とした。和木は脇の万葉書きである。と言うのである。 1633年の地図には脇とあり享保年間1716年頃の古文書には脇・和木の両方書いている。防長風土注進案(1842年)は全て和木になっています。古文書により違いはありますが、複数の古文書から大滝→脇→和木と考えるのが自然です。 私は伝説は?と思っています。(入村して300年後に頭文字をとるかな?)和木は日本中に複数あり(広島の三原市にも和木はある)昔、京都の地名が流行したので京都の綾部にある和木の漢字をまねたのではと。(京都の和木はわぎと発音)。例えば地方の博多に京都の地名があるのも同じ理由と思っています。
和木町の歴史
江戸時代 1668年の地図 脇大滝が和木へ 向大滝が大竹へ (大滝神社の名前の由来) オオタキがオオタケ に
関戸の道は大化の改新以来、都から太宰府に行くとき道として使用され、後に大名行列も通っていました。
昭和10年頃 まだ栄橋もありません。手前大竹 小瀬川を挟んで和木 川沿いに旧和木役所(広沢氏建築)ができました 養専寺蔵
昭和20年5月10日(現在の三井・JXあたり)B29が1200発の爆弾を投下し何日も燃えました。
三井化学が和木にできました
日本で一番早くできました。
財政力指数は340(標準の3.4倍)ありました。日本で一番早く下水道普及率100%になりました。給食・医療費も中学卒業まで今でも無料です
昭和3年 日本紙業(現在の日本製紙) 燃料の石炭を山越えでケーブルで新港から工場へ搬送していた。
石炭を山越えで運んでいる。
和木町役所の歴史
明治22年 小瀬川村(小瀬・和木・瀬田・関ヶ浜)が誕生した。場所は関戸の坂の道に面した所にありました。
明治32年 小瀬川村が小瀬と和木にわかれた。ここに今の形の和木(和木・瀬田・関ヶ浜)が誕生した。
昭和6年撮影 明治43年に改築した和木役所(昭和9年頃まで使用) 三人の中で左から播岡村長・森川助役・藤本収入役
T.英一氏(隣の土地の持ち主 当時は畑でした)によると小学校の裏側の小瀬川沿いで現在では川の拡張により川の中の位置にあったそうです。
昭和9年 和木役場完成(広沢氏建築) 昭和50年まで使用 小瀬川沿いで大和橋の100メートル位上流にありました(川の拡張により現在では川の中の位置)。中央の入り口が役場用・左の入り口が農協用でした。中では区切られていました。二階に総務課や議場がありました。牛乳配達所・駐在所が隣にありました。
昭和初期撮影(昭和10年頃) しろうお漁をしている。旧和木役所が右上に見える 旧和木役所が川沿いの道路にある
現在の和木町役所 昭和50年から小瀬川沿いから現在の地に移転 行政側の建物と議会側の建物が手を握っているデザインとなって
います。
和木中学校の歴史
和木中学校の校歌 瀬戸の海〜 昭和32年できました 昭和22年和木小学校内中学校仮校舎として独立する
現在も、校訓は英知・愛情・勇気 が続いています。
明治42年7月7日 記念写真七夕の日に撮るのが当時お洒落と考えられる。何も無い時代(彼女たちにあるのは知識と友達)で結核が不治の病であった当時また再会したいという想いが七夕の日にしたのでしょう。<はかま>をはいている。広島中町高等女学校(今の県立皆実高校)の同級生。和木尋常小学校高等科は旧民家を改築して校舎としていた時代です。翌年新校舎(木造)落成となります 大和橋歯科蔵
明治40年の学制は尋常高等小学校6年が義務教育でそれから小学校高等科2年(今の中学校 小学校と中学校が同じ校舎なのはその為)それから高等女学校2〜4年か中学校(今の高等学校)それから大学へとなっているので 写真は和木尋常小学校卒業して高等女学校(4年)に行ったのか和木尋常小学校高等科を卒業して高等女学校(2年)に行ったのか分かりませんでしたが明治31年生まれと分かり和木尋常小学校を卒業して4年の高等女学校に入学した直後に撮影(和木尋常小学校高等科1年に相当 現在の中学1年に相当)。明治でも広島市内は写真を沢山撮っているのは当時から市内は裕福だったと考えられる。
写真の裏です。写真が当時大切なものと思われます。
大正4年3月20日 和木尋常高等小学校 高等科(現在の中学校)の卒業式の写真 場所は現在の小学校 後ろに昔の校舎が見えます。まだ西2階校舎・南2階校舎がありません。最古の校舎の写真かもしれません。(大和橋が木造の時代) 大和橋歯科蔵
上の写真の裏
昭和12年頃 尋常高等小学校の高等科(今の中学生に相当)の運動会(南二階校舎の前)と思われます。荒城の月の合同遊戯でしょうか?
運動会の最後は高等科2年の遊戯が最後のしめでした。
昭和24年に小学校を間借りしていた状態から現在の三井化学の位置に中学校が独立し移転しました。10年間使用し
現在の地に移転しました。
現在の地に昭和34年中学校ができました。平成23年まで使用
フェニックスの似合う旧中学校校舎
平成23年 最新鋭の設備の整った和木中学校 電子黒板・冷暖房完備
和木小学校の歴史
和木小学校の校歌 維新の光〜 昭和25年頃できました。
大正7年撮影 明治7年和木小学校創立し 明治26年旧民家を改築して校舎とする。明治42年旧校舎を解体。明治43年新校舎落成 北校舎と西校舎の大修繕 大正7年米村氏寄贈により西二階校舎の増築(左側の二階建てを増築)
大正年間の和木小学校 大正7年にできた2階建ての横が映っている 八幡宮の山から撮影 和木町蔵
昭和3年 11月 御大典記念 昭和天皇の即位のお祝いを小学校の校庭でしている。赤穂浪士の様式で47人 竹野氏蔵
昭和初期(光尾校長の後任の佐々木校長が写っていてまだ南二階校舎がないので昭和5年から昭和11年の間) 中央の黒い服が校長先生 後の列が女の先生か母親で羽織・はかまが当時をうかがわせる。運動会の時と考えられています。
昭和12年 南二階建校舎新築(工費18000円)西二階校舎の前につくりました。
昭和16年 左側が村重校長(佐々木校長の後任) その前が沖先生でメガネ装着の島先生へ引き継ぎと考えられる。
(小学3年から4年生へ)セーラー服を着ている。 二宮金次郎(尊徳)の像が見えます。左側が講堂 右側が西二階校舎
昭和12年の日中戦争 昭和16年12月の第二次世界大戦開始の時期であり子供たちの顔も大人に見えます。 山田氏蔵
和木尋常高等小学校 昭和12年 南二階建校舎(前の二階建ての校舎)(広沢氏建築)は国民学校の初等科の生徒が使用 前の左の小さな建物はトイレ 左の後は講堂(昭和6年新築) 右の後は高等科(現在の中学校に相当 昭和22年和木小学校内中学校校舎)の生徒・職員室・工作室・裁縫室・空き室・幼稚園がありました。南校舎と講堂の間の中庭に池(昭和18年に作った)があり 淡水魚・鳥がいて防火用水としても使用、二宮金次郎(尊徳)の銅像(昭和10年 工費240円)も見えますね。 旧和木役所(小瀬川沿い)も中央上の白い建物で見えます 尋常高等小学校は皇国の道に則って、昭和16年和木国民学校と名前が変わりました。軍の影響を感じます。和木小学校蔵
当時の小学校・役所・農協・駐在所等の配置面 大和橋歯科蔵
昭和38年 和木小学校竣工 南二階建校舎の前の校庭に作りました。昔の木製の校舎全て壊しました。 和木町史より
平成10年撮影 今は無き旧小学校校舎と旧体育館 和木小学校蔵
平成25年6月 壁一枚になった旧小学校校舎(左側)と新校舎(右側) 電子黒板・冷暖房完備 大和橋歯科から撮影
現在の小学校の上空から撮影 和木小学校蔵
現在の小学校 平成25年から
和木子供園(幼稚園)の歴史
和木幼稚園の園歌 倉田先生(和木中学校の音楽の先生 後に和木小学校の校長)が作曲しました。
平成31年3月まで使用 子供園が出来る前の旧和木幼稚園(昭和44年頃完成) 現在は使用していません
平成31年3月まで使用 旧和木保育所
現在の子供園(幼稚園と保育所) 2019年2月竣工 県で一番クラスの設備です
2階は保育所でまるで遊園地ようです。
コミュニティセンターの歴史
昭和32年8月完成 現在のコミュニィティセンター(図書館)の所には昔、公民館の建物がありました。岩国市との合併を断った為、国の補助金無し。
昭和36年 敬老会 公民館内部 竹野氏蔵
現在のコミュニティセンター
装束・新港の写真
大正7年頃 新港 瀬戸内海が道に接している。左の小さい山は今のユニオン石油の緑色のコンビナート辺り 山の木は当時はお風呂の燃料等で利用するので切りとられている。
大正時代の新港海水浴場 (上の写真の反対側の風景) 瀬戸内海は最高の宝
昭和初期 装港小学校(二号線沿い)現在は新しい校舎に変わっています。
大正時代 新港 国旗がある(祝日?)正装の婦人が話をしている。優雅さを感じます。山陽線がまだ単線なので大正初期とわかります。
左側が瀬戸内海 港 が見えます。
大正12年完成なので大正11年頃? 山陽線の複線化工事 作業員がトンネルの上から蒸気機関車を見ている。線路が曲がっていても
昔はスピードが遅いので問題無いのであろう。 (岩国港 記念写真集より)
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